2007.06.21 (Thu)
初めまして
父の病気が判明してから父は五ヶ月ほどで亡くなってしまいました。
最期には家族で私だけその場で看取ってあげる事も出来ず、
病院が片道5時間と遠く交通手段も無かった私は、
父の死後10時間後に解剖前の冷凍庫で冷え切った父と10日ぶりの再会をしました。
悪性腹膜中皮種というお腹の膜に癌細胞ができる病気でした。
父はとても健康に気をつけている人で、
毎朝小魚を焼いては食べ、お酒も大好きだったけど乳飲料も積極的に飲み漢方薬も食べてました。
一ヶ月に一回は健康診断に行って・・・、
2006年7月辺りから食欲が無くなったと体の異変に父が気付き、
何度も病院に行くも「異常なし」。
父に「お腹出てない?」って聞かれてお腹を見ると、
ビール腹にしては胸からすぐ下から風船の様にお腹が膨らんでました。
体調も芳しくなく、父は月1の頻度で健康診断を受けに行ってました。それでもやっぱり「異常なし」。
お腹の膨らみと圧迫感での吐き気で父は「おかしい、絶対おかしい。」
と言ってまた、急いで病院に診断しに行った11月。
至急検査入院して下さいと父と母は医者に言われて、
それから20日以上経った12月の後半、その日の夜母だけ呼ばれ、
たぶん病名と長くない事を告げられたのだと思います。
その時点での父の病状はレベル5。末期です。
母は泣いた後の様な顔で病室に入ってきたので、
父にすぐ見破られて「もしかしたら年内持たないかもしれない・・・って言われた」と話しました。
その時の絶望感は今思い出すだけでも涙が出ます。
何故、7月から病院に行っていたのに分からなかったのか。
そんな事を悔やむ時もあります。
中皮種は初期に見つけるのはとても難しい病気なのだそうです。
一般の病院で血液検査や胃カメラ(父は月1でやってました)では発見出来ませんでした。ネットで調べたらMRIで検査した方が良かったみたいです。
この中皮種という病気は知名度が低いです。的確に診断出来る家族や患者の方は少ないと思います。実際、私の家族がそうでした。
アスベストが原因の病気があると知っていたら早期発見出来たのかも知れない。
ただ、この腹膜中皮種と言う病気には直す薬がありません。
腹水の症状もあり、お腹の膜に癌細胞がある為、手術も出来ないと。
症状を軽減する薬はあっても治せる薬は無いと母は言われたんだそうです。
年内持たないかもしれないと言われた父はすぐに、通院に変えました。
先生もそれで了承してくれました。
一ヶ月に三回病院に足を運んでも、病状は良くなりません。
病気のせいで食欲も無く痩せていく父を見るのが辛かった。
それでも家族でご飯を食べる時「おいしー!」「うまい!」と笑顔で少しだけ食べてました。
今思えば、父は無理をしてたんじゃないかと思います。
同じ薬を打っていると体が慣れてしまって効かなくなります。
最初の薬では腹水を止める事が出来ず、
深夜から朝まで腹水による圧迫で苦しくて横になれないと階段を上がったり下がったりしていた日もありました・・・。
今の病院では水を抜く治療とあまり効かない薬の投与しかないと言われ父も辛かったと思います。
私は父に中皮種専門の病院を探してくれと頼まれて、必死で探しました。
病名が分かっていたので、病名を検索すると色々出てきたのを覚えています。
腹膜中皮種は中皮種の中で稀な病気なのだと言うのもネットで知り、
発症から一年間での生存率が低いパーセンテージで記載されているのを見て一人で泣きました。
調べても調べても胸はあっても腹を受け入れてくれる病院はありませんでした。例がないと言われました。それでも父は私が調べた病院に自分で電話をかけ「診てくれ」と頑張って生きようとしていました。
話が進んで、行く話になった時に「腹膜は症例がないので受け付けれないと言われた」と言う落胆する父の顔を忘れません。
私には母親違いの二人の兄がいます。
兄と言っても滅多に会った事は無くて、私が生まれた時には二人とも家庭を持っていたので一緒に暮らした事はありません。
その兄達も父の病気を受け入れてくれる病院を探してくれていて、
岡山県の病院に入院する事が決まりました。
私は千葉県在住なので、岡山の病院へは片道5時間はかかります。
それでも父は新薬アリムタの投与をする為に入院すると決めました。
アリムタは本来胸膜中皮種の治療薬なのですが、
他に薬が無いので父は入院した次の日に投与しました。
父が入院したのは4月24日。
出かける父を前に泣き出す私に
「何泣いてるの。まさか父ちゃんがもう帰って来ないと思ってるんじゃないでしょうね!大丈夫だよ」
って笑顔で笑って言ってくれて、
玄関先で珍しく父から「握手ね」って笑って手を握ってくれた。
凄く冷たい手だった。
アリムタ投与をしてから副作用もあって食べ物を受け付けなくなりました。父が入院してから一週間後に私は泊り込んで付き添いましたが、
プリン、ヨーグルト、果物しか食べれませんでした。
本当に一口ご飯を食べるだけで吐き気で食べられませんでした。
付き添って一週間程で私は学校がある為、母と交代で帰りました。
朝病室を出る時も、起き上がる事が出来ずうつろな目で私を見送る父の姿を見たらまた泣きそうになってしまい、そんな私の顔を見た父は、
「何ね、またね」と笑顔で手を振ってくれました。
一番不安で辛かったのは父なのに、いつも父は私に心配かけない様に振舞ってくれてました。
どんなに辛そうに息を吐いてる時も「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だよ」と優しく答えてくれました。
そして、また母と交代して一週間滞在。
5月の10日前後だったと思いますが、父はその頃位からお腹の圧迫感で夜眠れない生活が続いてました。
あまりお腹の水を抜いてしまうと水と一緒に栄養もとられてしまうと先生に言われ我慢していました。
よく深夜に喉が渇くらしく一時間おきに起こされては水をあげました。
そんな日が続いて私も寝不足でイライラしていて、何度も怒鳴ってしまった事を後悔しています。
父は私に凄く優しい人だったから、水がぬるくなっちゃうけど寝る前に机に置いておいてくれれば良いよと言ってくれて。
その日から父は私が自分で起きるまで一度も起こしたりしませんでした。うつろな目で私の方をずっと見ていた様な感じで・・・私が起きるとすぐに水を頂戴と言っていました。
机に置いた水が無くなって、ペットボトルが空になって喉が渇いていても私が起きるまで我慢していた。本当にごめんなさい。
愚痴を言う私に「ごめんね」と謝る事もありました・・・。
思い出すと何度も何度も「私がごめんね。私がもっと優しくしてあげれば良かったのにね。一番辛かったのはお父なのにね」と言葉が浮かびます。
そして5月の18日か19日頃、また母と変わって私が病院に泊り込む予定でしたが父が私に電話をかけてきて、「明日、また薬を打つから・・・副作用が強くて○○じゃ看病大変だから、母ちゃんにまた明日来て貰って」
って言われて・・・正直今のあんな弱弱しい父になんでまたアリムタ二回目打つのか・・・と心の中で思ってました。泣かないようにこらえて「うん、わかった」と電話を切りました。
その電話が父との最後の会話です。
21日の朝、母に電話を掛けても全くでず、
二時間後父の携帯に電話を掛けると母が出ましたが、
私は朝から変な胸騒ぎがして、
「お父が危篤とか容態が悪くて電話でないのかと思ったじゃないか!」と母に怒って電話を切りました。
同日の15時頃に別の用件で母と電話し、父の容態があんまりよく無いから明日来る?と全く危機感の無い口調で言われた為、
「なんでそんな大事な事を私から掛けた電話でついでみたいに言うの!」と言ったら、母も怒ってそれで電話終了・・・。
なんであの日に限って私はあんなにイライラしてたのか分かりません。
同日19時頃に兄から携帯に怒鳴り込んだ電話。
「今すぐ来い!格好なんかそのままでええからすぐ来い!」。
困惑する私に兄は「親父が危篤じゃ!今日もたんかも知れん!こい!」
交通手段とお金が無いのと危篤と言う言葉に頭が混乱して泣く事しか出来ずに、「危篤なんて聞いてないよ!」と兄に訴えた。
一度電話を切って母から電話。
「あんた、私言ったよね?」とうんざりした口調で言われる。
「危篤とは聞いてないよ!お父生きてるの?!」
「え?生きてるよ。」と兄とは違ってあっけらかんとした口調で言うので余計に困惑した。
さらに「今日急いで来てアンタが事故にあったら危ないから明日来れば良いよ」と母が言った。
そして、兄とも相談して22日の朝に飛行機で行くことにした。
21日の22時過ぎ、兄が「親父に話しかけろ!」と凄い勢いの電話を掛けて来て、呼びかけると、父は言葉にならない返事をした。
うーとかおーとか、私が呼びかける言葉全てにそう返した。
日付が変わって22日の0時半頃、
また兄から父に話しかけろ!と電話が来て呼びかけるも、返事は無い。
声をどんどん大きくして呼びかけたら微かに最後に「うー・・・っ」と絞り出した様な父の声が聞こえた。
その声のすぐ後に兄の「止まった・・・」という声と母の「うそ・・・?」という声が聞こえ兄の少し震えた「また掛ける」の声で電話は切られました。
20分後、兄からの電話で父が息を引き取った事を伝えられました。
5月22日0時35分。
私はそれを聞いた瞬間叫ぶ様に泣きました。
兄は「親父はお前の声聞いとったよ。お前の声最後に聞いて安心して逝ったと思うよ」と慰めてくれたけど、あの時もっと迅速にバスなり電車なり飛行機なりの時間を調べて駆けつければ、
父が息を引き取る時に傍にいられたかも知れないと考えてしまいます。
兄からの電話の時「走ってでもすぐ駅に行けば良かった」と兄に話すと少し黙って「・・・間に合わなかったよ」と行ってくれました。
その言葉が凄く気持ちを楽にしてくれました。
「間に合ったかもね」と言われるよりずっと。
私は22の朝5時半にバスに乗り、飛行機に乗り、兄の車に乗り、
冷たくなった父に会い、解剖の時間までずっと大好きだった父の手を握ってました。
最後に病室で別れた時よりもまた痩せて、頬をこけて、口は開いてました。冷たい父の頭を撫でて、手を擦って、すすり泣いてました。
あんなに可愛がってくれた父に最後に自分の姿を見せたかったなあ・・・なんて、何をしても後悔してたんだろうと思います。
一ヶ月が経とうとする今でさえ、寝ようと目を瞑れば浮かぶ父の笑顔で毎晩泣いています。
少し文章が長くなってしまったので今日はココで終わります。
一日でも早く父のいない生活に慣れなくては。
一発目から暗くてすみません@@;
最期には家族で私だけその場で看取ってあげる事も出来ず、
病院が片道5時間と遠く交通手段も無かった私は、
父の死後10時間後に解剖前の冷凍庫で冷え切った父と10日ぶりの再会をしました。
悪性腹膜中皮種というお腹の膜に癌細胞ができる病気でした。
父はとても健康に気をつけている人で、
毎朝小魚を焼いては食べ、お酒も大好きだったけど乳飲料も積極的に飲み漢方薬も食べてました。
一ヶ月に一回は健康診断に行って・・・、
2006年7月辺りから食欲が無くなったと体の異変に父が気付き、
何度も病院に行くも「異常なし」。
父に「お腹出てない?」って聞かれてお腹を見ると、
ビール腹にしては胸からすぐ下から風船の様にお腹が膨らんでました。
体調も芳しくなく、父は月1の頻度で健康診断を受けに行ってました。それでもやっぱり「異常なし」。
お腹の膨らみと圧迫感での吐き気で父は「おかしい、絶対おかしい。」
と言ってまた、急いで病院に診断しに行った11月。
至急検査入院して下さいと父と母は医者に言われて、
それから20日以上経った12月の後半、その日の夜母だけ呼ばれ、
たぶん病名と長くない事を告げられたのだと思います。
その時点での父の病状はレベル5。末期です。
母は泣いた後の様な顔で病室に入ってきたので、
父にすぐ見破られて「もしかしたら年内持たないかもしれない・・・って言われた」と話しました。
その時の絶望感は今思い出すだけでも涙が出ます。
何故、7月から病院に行っていたのに分からなかったのか。
そんな事を悔やむ時もあります。
中皮種は初期に見つけるのはとても難しい病気なのだそうです。
一般の病院で血液検査や胃カメラ(父は月1でやってました)では発見出来ませんでした。ネットで調べたらMRIで検査した方が良かったみたいです。
この中皮種という病気は知名度が低いです。的確に診断出来る家族や患者の方は少ないと思います。実際、私の家族がそうでした。
アスベストが原因の病気があると知っていたら早期発見出来たのかも知れない。
ただ、この腹膜中皮種と言う病気には直す薬がありません。
腹水の症状もあり、お腹の膜に癌細胞がある為、手術も出来ないと。
症状を軽減する薬はあっても治せる薬は無いと母は言われたんだそうです。
年内持たないかもしれないと言われた父はすぐに、通院に変えました。
先生もそれで了承してくれました。
一ヶ月に三回病院に足を運んでも、病状は良くなりません。
病気のせいで食欲も無く痩せていく父を見るのが辛かった。
それでも家族でご飯を食べる時「おいしー!」「うまい!」と笑顔で少しだけ食べてました。
今思えば、父は無理をしてたんじゃないかと思います。
同じ薬を打っていると体が慣れてしまって効かなくなります。
最初の薬では腹水を止める事が出来ず、
深夜から朝まで腹水による圧迫で苦しくて横になれないと階段を上がったり下がったりしていた日もありました・・・。
今の病院では水を抜く治療とあまり効かない薬の投与しかないと言われ父も辛かったと思います。
私は父に中皮種専門の病院を探してくれと頼まれて、必死で探しました。
病名が分かっていたので、病名を検索すると色々出てきたのを覚えています。
腹膜中皮種は中皮種の中で稀な病気なのだと言うのもネットで知り、
発症から一年間での生存率が低いパーセンテージで記載されているのを見て一人で泣きました。
調べても調べても胸はあっても腹を受け入れてくれる病院はありませんでした。例がないと言われました。それでも父は私が調べた病院に自分で電話をかけ「診てくれ」と頑張って生きようとしていました。
話が進んで、行く話になった時に「腹膜は症例がないので受け付けれないと言われた」と言う落胆する父の顔を忘れません。
私には母親違いの二人の兄がいます。
兄と言っても滅多に会った事は無くて、私が生まれた時には二人とも家庭を持っていたので一緒に暮らした事はありません。
その兄達も父の病気を受け入れてくれる病院を探してくれていて、
岡山県の病院に入院する事が決まりました。
私は千葉県在住なので、岡山の病院へは片道5時間はかかります。
それでも父は新薬アリムタの投与をする為に入院すると決めました。
アリムタは本来胸膜中皮種の治療薬なのですが、
他に薬が無いので父は入院した次の日に投与しました。
父が入院したのは4月24日。
出かける父を前に泣き出す私に
「何泣いてるの。まさか父ちゃんがもう帰って来ないと思ってるんじゃないでしょうね!大丈夫だよ」
って笑顔で笑って言ってくれて、
玄関先で珍しく父から「握手ね」って笑って手を握ってくれた。
凄く冷たい手だった。
アリムタ投与をしてから副作用もあって食べ物を受け付けなくなりました。父が入院してから一週間後に私は泊り込んで付き添いましたが、
プリン、ヨーグルト、果物しか食べれませんでした。
本当に一口ご飯を食べるだけで吐き気で食べられませんでした。
付き添って一週間程で私は学校がある為、母と交代で帰りました。
朝病室を出る時も、起き上がる事が出来ずうつろな目で私を見送る父の姿を見たらまた泣きそうになってしまい、そんな私の顔を見た父は、
「何ね、またね」と笑顔で手を振ってくれました。
一番不安で辛かったのは父なのに、いつも父は私に心配かけない様に振舞ってくれてました。
どんなに辛そうに息を吐いてる時も「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だよ」と優しく答えてくれました。
そして、また母と交代して一週間滞在。
5月の10日前後だったと思いますが、父はその頃位からお腹の圧迫感で夜眠れない生活が続いてました。
あまりお腹の水を抜いてしまうと水と一緒に栄養もとられてしまうと先生に言われ我慢していました。
よく深夜に喉が渇くらしく一時間おきに起こされては水をあげました。
そんな日が続いて私も寝不足でイライラしていて、何度も怒鳴ってしまった事を後悔しています。
父は私に凄く優しい人だったから、水がぬるくなっちゃうけど寝る前に机に置いておいてくれれば良いよと言ってくれて。
その日から父は私が自分で起きるまで一度も起こしたりしませんでした。うつろな目で私の方をずっと見ていた様な感じで・・・私が起きるとすぐに水を頂戴と言っていました。
机に置いた水が無くなって、ペットボトルが空になって喉が渇いていても私が起きるまで我慢していた。本当にごめんなさい。
愚痴を言う私に「ごめんね」と謝る事もありました・・・。
思い出すと何度も何度も「私がごめんね。私がもっと優しくしてあげれば良かったのにね。一番辛かったのはお父なのにね」と言葉が浮かびます。
そして5月の18日か19日頃、また母と変わって私が病院に泊り込む予定でしたが父が私に電話をかけてきて、「明日、また薬を打つから・・・副作用が強くて○○じゃ看病大変だから、母ちゃんにまた明日来て貰って」
って言われて・・・正直今のあんな弱弱しい父になんでまたアリムタ二回目打つのか・・・と心の中で思ってました。泣かないようにこらえて「うん、わかった」と電話を切りました。
その電話が父との最後の会話です。
21日の朝、母に電話を掛けても全くでず、
二時間後父の携帯に電話を掛けると母が出ましたが、
私は朝から変な胸騒ぎがして、
「お父が危篤とか容態が悪くて電話でないのかと思ったじゃないか!」と母に怒って電話を切りました。
同日の15時頃に別の用件で母と電話し、父の容態があんまりよく無いから明日来る?と全く危機感の無い口調で言われた為、
「なんでそんな大事な事を私から掛けた電話でついでみたいに言うの!」と言ったら、母も怒ってそれで電話終了・・・。
なんであの日に限って私はあんなにイライラしてたのか分かりません。
同日19時頃に兄から携帯に怒鳴り込んだ電話。
「今すぐ来い!格好なんかそのままでええからすぐ来い!」。
困惑する私に兄は「親父が危篤じゃ!今日もたんかも知れん!こい!」
交通手段とお金が無いのと危篤と言う言葉に頭が混乱して泣く事しか出来ずに、「危篤なんて聞いてないよ!」と兄に訴えた。
一度電話を切って母から電話。
「あんた、私言ったよね?」とうんざりした口調で言われる。
「危篤とは聞いてないよ!お父生きてるの?!」
「え?生きてるよ。」と兄とは違ってあっけらかんとした口調で言うので余計に困惑した。
さらに「今日急いで来てアンタが事故にあったら危ないから明日来れば良いよ」と母が言った。
そして、兄とも相談して22日の朝に飛行機で行くことにした。
21日の22時過ぎ、兄が「親父に話しかけろ!」と凄い勢いの電話を掛けて来て、呼びかけると、父は言葉にならない返事をした。
うーとかおーとか、私が呼びかける言葉全てにそう返した。
日付が変わって22日の0時半頃、
また兄から父に話しかけろ!と電話が来て呼びかけるも、返事は無い。
声をどんどん大きくして呼びかけたら微かに最後に「うー・・・っ」と絞り出した様な父の声が聞こえた。
その声のすぐ後に兄の「止まった・・・」という声と母の「うそ・・・?」という声が聞こえ兄の少し震えた「また掛ける」の声で電話は切られました。
20分後、兄からの電話で父が息を引き取った事を伝えられました。
5月22日0時35分。
私はそれを聞いた瞬間叫ぶ様に泣きました。
兄は「親父はお前の声聞いとったよ。お前の声最後に聞いて安心して逝ったと思うよ」と慰めてくれたけど、あの時もっと迅速にバスなり電車なり飛行機なりの時間を調べて駆けつければ、
父が息を引き取る時に傍にいられたかも知れないと考えてしまいます。
兄からの電話の時「走ってでもすぐ駅に行けば良かった」と兄に話すと少し黙って「・・・間に合わなかったよ」と行ってくれました。
その言葉が凄く気持ちを楽にしてくれました。
「間に合ったかもね」と言われるよりずっと。
私は22の朝5時半にバスに乗り、飛行機に乗り、兄の車に乗り、
冷たくなった父に会い、解剖の時間までずっと大好きだった父の手を握ってました。
最後に病室で別れた時よりもまた痩せて、頬をこけて、口は開いてました。冷たい父の頭を撫でて、手を擦って、すすり泣いてました。
あんなに可愛がってくれた父に最後に自分の姿を見せたかったなあ・・・なんて、何をしても後悔してたんだろうと思います。
一ヶ月が経とうとする今でさえ、寝ようと目を瞑れば浮かぶ父の笑顔で毎晩泣いています。
少し文章が長くなってしまったので今日はココで終わります。
一日でも早く父のいない生活に慣れなくては。
一発目から暗くてすみません@@;
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
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2015.12.15(火) 10:35 | |
【コメント編集】
このコメントは管理者の承認待ちです
|
2013.08.02(金) 18:54 | |
【コメント編集】
このコメントは管理者の承認待ちです
|
2013.02.09(土) 13:42 | |
【コメント編集】
このコメントは管理者の承認待ちです
|
2012.07.07(土) 07:34 | |
【コメント編集】
このコメントは管理者の承認待ちです
|
2009.09.26(土) 10:51 | |
【コメント編集】
このコメントは管理者の承認待ちです
|
2009.03.01(日) 19:31 | |
【コメント編集】
はじめまして
あっこさま
偶然ここに辿り着きました。
私の父も今年5月に中皮腫で亡くなりました。
とても悲しい出来事でした。
私の父は胸膜でした。
アリムタに耐えられる体力さえ無く、
更に心臓を圧迫され最後は窒息状態・・・
信じられない事に足までも。
大工だった父はアスベストが要因と判断されました。
これから発症件数は増加の一途!
だから誰かの役にたつことを信じながらブログに記しました。
突然ですみません。
同じような体験をされていると知ってコメントしてしまいました。
お父様が亡くなれて日が浅いので悲しみいっぱいと思いますが、
気を強くもって下さいね!
お願いがあります。
私のブログにリンクを貼らせて頂けますか?
実は既にリンクを貼っています。
駄目でしたら即リンク外します。
宜しくお願いします。
あっこさま
偶然ここに辿り着きました。
私の父も今年5月に中皮腫で亡くなりました。
とても悲しい出来事でした。
私の父は胸膜でした。
アリムタに耐えられる体力さえ無く、
更に心臓を圧迫され最後は窒息状態・・・
信じられない事に足までも。
大工だった父はアスベストが要因と判断されました。
これから発症件数は増加の一途!
だから誰かの役にたつことを信じながらブログに記しました。
突然ですみません。
同じような体験をされていると知ってコメントしてしまいました。
お父様が亡くなれて日が浅いので悲しみいっぱいと思いますが、
気を強くもって下さいね!
お願いがあります。
私のブログにリンクを貼らせて頂けますか?
実は既にリンクを貼っています。
駄目でしたら即リンク外します。
宜しくお願いします。
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